4周年企画:あなたの好きなものは何ですか?改

こんにちは、こんばんは。

felesitas.cloud鯖缶かつ管理人の雨宮凪沙(nagiko)です。

このたび、本日2021年6月29日をもって、felesitas.cloudが4周年を迎えることが出来ました。

紆余曲折あったものの、ここまで続けられたのは、利用して頂ける皆さんのお陰です。ありがとうございます。

今回、4周年に向けて何かをするのか、と話題になったとき、提案されて出てきたものが、以下のようになっています。

 

「4周年企画:あなたの好きなものは何ですか?改」
趣旨:felesitas.cloudに入るときに、自分の好きなもの、ことを1つ決め、文章を書いてもらいました。
felesitas.cloudが4周年を迎えるにあたり、もう一度書いてみたら、自分はどんなものを書くんだろう、という声が上がりました。
この機会に、あなたも、もう一度、自分と向き合ってみませんか。

参加資格  :felesitas.cloudにアカウントを持っている方、参加自由
応募の仕方 :Discord、matrix、mastodonのDM等で受け付けます。
注意    :500字以上、最大文字数制限はなし。
       文章と合わせて、「外部に公開」、「felesitas内だけに公開」、「私(nagiko)だけに公開」を明記してください。
       それに合わせ、公開のものは公開で私が返答を、felesitas内だけ、私だけの場合は個別に返答します。
スケジュール:提出期限:6/26(土)お昼12:00まで(融通は効きます)
       発表:6/29(火)(ブログ上で発表)

 

ということで、このブログ上では、felesitas内にアカウントを持った方から送られてきた、公開してもよい文章を載せていき、受け止めた私からのコメントも同時に掲載していこうかと思います。

 

 

 

初めにお送りいただいたのは、アツコさんです。

あつこ (@atsuko@felesitas.cloud) - felesitas.cloud

お送りいただいた文章を掲載します。

 

私は自分のことが嫌いだった。自己が生まれたのは何歳の時かわからないが、歳を重ねる度に嫌いなところが増えていった。最初に嫌いになったのは母親に着させられているダサい服で、それまでは何とも思っていなかった服がいきなり嫌になり、そのうち自分で服を選びたいと思うようになった。

 

父親が服好きだったので、当時流行っていた高い子供用のブランド服をたまに買ってくれた。一風変わったデザインの奇抜でカラフルな商品が多く服選びはとても楽しかったが、毎回父親が「この子が着ても似合わないと思うんですけど」と店員さんに謙遜していう言葉がそのうち自分の身体に染み付いて本当にそうなんだと思うようになった。

 

服好きは中学生から高校生の間も続いて、いわゆる異性にモテそうな服などには興味もなく、古着などを駆使したちょっと風変わりなテイストが大好きだった。当時そういう系の尖っていた雑誌を買ったり大阪の堀江に行ったりしてはお洒落な人を参考にして自分も服を選んでみたが、自分のチョイスがおかしいのかそもそも見た目がおかしいのか、何を着ても雑誌の中の人のようにはならなかった。当時はプリクラが流行っていて、とにかく遊ぶと言えば必ずプリクラを取る時代だったから、友達と写った自分をみてただ純粋に気持ち悪いな(特に顔が)と思っていたが、この気持ち悪さをどうすれば消せるのかもわからなかった。

 

大学生になって実家を出て、サークルとか恋愛で昼夜問わず同じ人に会うようになると人間関係も深くなっていき、今度は外見だけでなく内面までどんどん嫌になって言った。なんであんなこと言ったんだっけ、言わなければよかったと、別に相手と仲が悪くなったわけでもないのに勝手に自己反省して落ち込んでいた。トドメは大学終わりに起こった就活で、どこからも内定をもらなかったので、自分は元々嫌いだったけど、社会も自分のことが嫌いなんだなと思った。

 

なんだかんだそこから十年ぐらい経ったが、今は人生で一番自分のことが好きだと思う。そしてこれからもっと好きになると思う。それは自分の技能や内面的なことだけでなく、自分の見た目とか声とか、これまで生理的に気持ち悪いなと思ってた部分も含めてそう思う。好きという気持ちは「○○だから」という理由があることも多いが、私はもしかしたら過程自体に価値を見出しがちで、自分のことが好きという気持ちも、「思い通りの外見になった」とか「理想の職業を手に入れた」とか、そういう昔思い描いてた好きな自分像とは全く異なる。

 

どこか止まって一点を指して好きと言っているわけではない。つまり私にとって自分のことが好きということは、常に自分と向き合うというある種の苦行を死ぬまでやると言っても過言ではないと思う。歳を取ると自分がどういう状態が心地よいのかということもわかってくるが、その状態で停滞しているとどういうわけかどんどん具合が悪くなる。心地よい環境を作るのは大事だけれど、時には少し刺激を入れることも必要だ。とは入れすぎるとそれはそれで良くない。とはいえ何もかも自分の人生がデザインできるわけでもなく、もしかすると私の意志とは関係なく物事は決まっているのかもしれないが、たとえ幻想であっても、他の誰でもない「私」の直感とか感覚を守っていきたい。

 

では、返答を。

この文章は、「アツコさん自身」のお話しですね。

自分が嫌いになるのはいつからなのでしょうね。私の場合はいつからと考えるまでもなく、周りより自らの能力が下だと考えるようになっていました。それは発達障害の傾向がその時から現れていて、自覚的になっていたからなのかもしれません。

 

アツコさんの場合、母親から与えられた服がいきなり嫌になったということで、ここで自我のようなものが形成されていったようにも思えます。
しかし、子ども用のブランド服を選んでいる段階で、父親の言葉に自身が半ば支配されていったようにも思えます。
人は些細なことで、言葉によって意識づけられてしまうことが多くあります。それは悪いこともあれば、良いこともあるとも思います。ただ、身近な人の一瞬の些細なものが、その後の人生の楔になることもあるので、気を付けたいところです。

 

服を求めて古着を求めたり、おしゃれな人を参考にして服を選ぶのは、そのこと自体は楽しいことですよね。私も最近になってその楽しさが分かるようになってきました。
顔が気持ち悪いという感情は、私もあります。どうしても、鏡の前に映った自分の顔が、肉のついたお面のような感じがしています。

 

自分の内面が嫌いであると記述されていますが、アツコさんは自分を客観視できる方なのだなぁと思います。でなければこのような書き方はしないでしょうから。そこはいいところもあると思います。
社会と自分のミスマッチは、自分も就活してしばらく経ったので思いますが、相手も自分も良いタイミングが来ないとマッチングはしないものなのだなぁと。
就活で思う、社会も自分のことが嫌いなのだという感情は、私も苦戦したので、良く良く分かります。

 

今現在のアツコさんは、日本から離れて遠い海外に住んでおり、タイムゾーンが違う中同じサーバーで触れ合っているので、可笑しいやり取りになってしまうことも多々あります。(アツコさんと同じ時間に食事をとるということは、どれだけ狂った生活をこちらが送っているのか……等)
自分自身の道を歩み、自己決定してきているから、自分のことが好きになってきている、ということでしょうか。技能や内面的なこと、見た目や声が好きになっていくというのは、羨望の気持ちを持ってしまいます。
アツコさんのこの「過程自体に価値を見出す」考え方は、自分自身に向き合うという意味では、とても良い考え方なんだろうなと思います。どうしても、理想を追ってしまうことがありますから。でも、ここまで頑張ってきたのだ、ということ、これをやっているときにこういうことに出会った、という過程に価値を見出すことというのは、素敵なことだなと感じます。

 

自分が好きであるということは自分と向き合い続ける一種の苦行、というのは、確かにそうですね。
どうしても、自分よりは他人や他のものに目を向けがちですから。自分を直視し続けるというのは辛いことです。
どのような状態が心地よいのかが分かっているというのは良いことだと思います。自分はそれをまだ見つけられないでいます。ただ、その状態でとどまっていると具合が悪くなるというのは不思議ですね。有名な言い回しですが、走り続けなければ止まれない、というのは当たっているのでしょう。
直観と感覚と、自分でデザインすること、「過程自体に価値を見出す」ことを複合して考えれば、常に新しいことに対して心を開いて、ある種運命的に何かに出会い、それを繰り返していく、というのが自分の考えではあります。felesitasのことでも、仕事でこういう業務をやりだしたというのと、その専門に詳しい人がたまたま偶然入ってくる、なんてこともあります。また、自分がこれを好きになったから、それが好きな方とつながりを持つことができた、ということもあります。
人生をコントロールすることは、私は出来ないなと考えていますが、アツコさんは、皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。

 


というところで返信は一旦締めさせていただきます。

 

今回もそうですが、felesitasでは、「自分の好きなもの、こと」について1つ決めて、500文字以上でその対象に対する自分の思いを文章にして書いていただいています。

 

この文章は「もの」でもなく、「こと」でもなく、自分自身のことをどう思うかなので、もし、これをfelesitasに入るときにお送りいただくのであれば、書き直してください、とお伝えすると思います。

 

とても良い文章であると思うのですが、物事に対する自身の立ち位置を知りたいと考えているので、対象と自分という2つの要素が必要であり、この文章では自分自身を対象として文章を書いていて、私の考えとしては、felesitasに入る文章としては趣旨から外れてしまっていると考えました。

 

今回の場合、周年企画ということもあって、訂正をお願いせずにこのまま文章を掲載することにしています。

ご参加頂き有難うございます。

 

次に、felesitas内に公開という意向でnicoさんが文章をお送りいただきました。

nico (@andnico@felesitas.cloud) - felesitas.cloud

この文章は、felesitas.cloudの方が入れるDiscordの中にチャンネルを作成し、そこで見ることができます。

ご参加頂き有難うございます。

 

 

そして、結果的に2通お送りいただいたのが星さんになります。

 

星 (@punkjazz@felesitas.cloud) - felesitas.cloud

 

では、1通目にお送りいただいた文章を見てみましょう。

 

drive.google.com

内容をここに転記します。

 

シン入荘文 執筆者:星 (みやいさとし)

(あまり関係のないイントロ)
約 4 年前に書いた時は「僕は音楽が好きです。何故なら~」という感じだったような気がする。
さて今回はどうするか...
自分としては前回とても抽象的な書き方をしてしまったように思うので、今回はもうチョット具体的に書けたらと思う。が、どうなるかは分からない。今回もフワッとライティングになってしまうかもしれない。ともあれ、しばしお付き合いいただければと思う。よろしくお願いしますぺこり。

 

「このマストドンサーバー(felesitas.cloud・通称ふぇれ荘) へアカウントを作る条件のひとつとして『あなたの好きなモノ・コトひとつについて 500 文字以上で』書いた入荘文を、今改めてまた書いてみませんか」という本来の趣旨からは外れてしまうかもしれないが今回は自分の好きな音、いや『理想の音』について書きたいと思う。
(以下、本文)

 

・・・

 

好きというか まだ見ぬ・未だ聴かぬ理想の音、自分の出したい音がある。
どうにも言語化が難しいその音についてはこの 10 年 15 年くらいぼんやり頭の中で想像しており、実感として、体験・経験として、自分が生きてるうちにその音を耳に出来ることはないのかもしれない、あくまで理想の音なので実際には自分も誰も聴けず、奏でることの出来ない弾(ひ)けないままで、ずっと夢想のまま追い求め続けることになるのかもしれない。
まあ それならそれでいい。やむを得ない、しょうがない。

 

なんとか文字にするなら「キ ゜ン...」という感じの、ごく短い一音である。
10 年前などに考えていたのはもっとこう、ゴゴゴゴゴゴゴ...とかファファ~~ン...みたいな音だったような気がする。が、これはきっと自分の中で折に触れ変わり続けていくものなのだろう。
ともあれ、今の自分の思う「自分で演奏し聴きたい音」について書く。

 

その音はそこそこ高音なので、エレキベースウッドベース (コントラバス) という低音楽器、及び打楽器類を主に演奏している自分はまず以て選択を誤っているような気がする、なんということでしょう。。だがそんなこと気にしてはいけない、これまで自分が弾いて来、それなりに思い入れのあるベースという(恐らくは不向きな)この楽器で「今は」その音を出したいのだ。うんうん

 

「その音」に似たような音や近い音は、例えばベースではない別の弦楽器や管楽器や鍵盤楽器、パソコンの音楽ソフト等の打ち込み音やシンセサイザー等の電子音、広義のノイズ...鳥の鳴き声や風の鳴る音、はたまた NASA が録音公開している惑星や恒星の内部の音?動く音?などの自然音や環境音...として聞けるのかもしれない し、もしかすると肉声や打楽器でも出せるのかもしれない。
なんなら今この手元にある、アイスコーヒーの入ったムーミンマグカップをボールペンで叩けば鳴るかもしれない。
(事実、実際にやってみたら「キン!」という音がした)
でもそれらはきっと自分の中では「違う...」と感じると思う し 思った。
その理由はいくつかある。

 

まずひとつ、その音はエレキであれウッド/アコースティックであれ「ベースを弾いて・自分が出す音」でなければならない。
(「○○べき」「~でなければ」という書き方は個人的にあまり好まないが、まあ 限定していくことで自他共に想像しやすくなるであろうため、今回は敢えてそう書く)

 

この理由は前々々段くらいのラストで軽く触れたとおり、完全に今の自分のエゴの問題だ。他者が出す音ではきっと満足できず、それは自らの出す音であって星い。
自分で出したい、その自分の手元の楽器から鳴る音を誰よりも近くで最初に自分が聴きたい。そしてその楽器はベースであって星い、これまで自分が一番長く触れてきた楽器だから。
いやはや、改めてこう書くと完璧に執着(心)だなあ...

 

「別にベースじゃなくてもいいし自分が弾かなくたっていい、もし実際にこの耳か体内かで聴き感じれさえすればそれでいい、何だっていい、方法手段は問わない」
僕にもそう考えていた時期がありました。違うんですね~それじゃダメなんですよね~私自身さんはよぉ~~?という感じである。
その理由は...と書くと無限ループに陥ってしまう。もうやめよう。繰り返される諸行無常。よみがえる星的衝動。福岡市博多区からやって参りましたここは so 冷凍都市。This is 星 or みやい
さとし、という感じである。はい次。

 

ふたつめは、えーとなんだっけ...
そうそう、ひとつめの理由の補足説明的になるかもしれないが、もしいつかどこかで自分がその音を出せるなら「弦楽器 (というかベース)を『実際に弾いて』出す音」でなければならない。
個人差があるかもしれないが、自分の場合は音を出すにあたって肉体的な動き・フィジカルな運動を伴わなければ「今!ぼくは!この音を出してる!!」という実感が湧きにくい。

 

そしてこれには、特に弦楽器を弾く際にかつての自分が抱き続けていたイメージも大きく関係している。
例えばエレキギターをピックで弾く際、特に大振りでコードを全力ジャカジャカやる時などは 、右手指に挟み持つピックと そのピックが実際に当たり震える弦からイメージが飛躍し「自分の腹部を刃物で切り刺す」つもりでやっていた。そう、ハラキリですね。
これがコントラバスをアルコ弾きする際には「大きな楽器を立ち抱え構え・縦に張られた弦に対し直角水平に・横に弓を動かし弾く」ことになるため、より顕著な hara-kiri イメージとなる。
であれば、馴染みのないチェロを弾いたとてこれは同様であろう。

 

チェロと同じく自分はまず弾く機会がないが、もしこれがヴァイオリンやヴィオラなら「左手を添え・首と肩とで挟み抱えた楽器を・右手に持った弓で弾く」ことになるため...そう、リスカですね。手首をひたすら切り重ねるイメージで自分はやっていただろうと思う。
そういう意味では (各種の琴や箏なども含め) 弦楽器をピチカートする、指でポロンポロンと爪弾く行為、と言うより自分の場合はピックを使わず・スラップ(チョッパー)もせず・ほぼ指弾きしかしない・エレキベースではこのイメージが若干持ちにくい、が、気にしてはいけない。

 

これは自分の心積もりの問題だ。
そういう意味では二胡なども含めた弓で弾く楽器、やはり弾いたことはないがバチで弾く、かつ正に切腹よろしく正座して弾く(こともある)三味線や琵琶等の撥弦(はつげん)楽器の方が個人的には気合いが入りそうな気もする。

 

何はともあれ「自身の身体を傷付け(る演奏イメージを持ち続け)なければ生を実感できない!」みたいな感じなのでこれは...なんというか、非常にマゾいですね。ただのヤベーやつと思われても何ら不思議はない
とはいえ、一時期に比べればこの演奏時の内的イメージというのは随分薄れたので、まあ良しとしましょう。

 

ちなにこれが管楽器や歌やボイスになると「呼気と共に、血反吐やはらわたを吐き散らかしこの一帯へぶちまけるイメージで...」となります (やっぱりマゾい)
打楽器だと、自分の動きとして (張られた革等を)明らかに殴打することになるため「この世に存在してはいけないナニカを撲殺してるつもりで...」となってしまい若干趣きが変わってくる。
いずれにせよ自身の攻撃的な暴力性を演奏にかこつけ発散している節がある、ということを今回改めて再認識した。(ほんとどうかと思う)

 

なので、これが鍵盤やサンプラーやパソコン等、広義の打鍵楽器となるとあまりに自身の身体的アクションが小さすぎる。もう指先だけじゃ満足できないカラダになってしまった...とまでは言わないが、例えばこれがエレキベースになると
「弦を指で弾く右手だけじゃどんなに叩きつけても足りないンギィイイ!でもネックを支え押さえる左手を駆使して、こう...楽器をブンブン振り回すことで!弾いてる実感マシマシで!幾分マシになるんほおおおお!!このベースのヘッドで!見えないもう一人の自分のマイヘッド!
殴ってるのほおおおおお!!!」
という感じでイメージ補完しているため(?)この肉体で抱えることの出来ない大きな楽器となると、これは逆に無理である。

 

とは言いながらも、それならそれで「この鍵盤は!ミサイル発射ボタン!撃ちまくる!撃て!テーーッ!このピアノをぶっ壊すつもりで!会場や街も全部!爆散!!滅!!!」みたいになって
しまうためやはりこの胸中、決して穏やかではない。
果たしてそれは自己破壊か自傷でしかないのか (器物損壊や他傷するつもりは毛頭ない)、やはり今しばらくは平穏平和なココロ安らぐ演奏など到底できそうにない。やれやれだぜ...

 

そういった自分個人に関しての、半ば強迫観念的とも言えそうな「死ぬ気で弾け!」という演奏イメージを持つに至ったきっかけはいくつかあって、主に先人達のインタビュー記事やさまざま書籍を読んだり、音楽友人知人先輩諸氏らの言葉を聞きフムフムしたことが大きい。
例えばそれは...そう
それこそ漫画・リボーンの初期に主人公の頭部へ毎回撃ち込まれていた、そのまんますぎる
「死ぬ気弾(だん)」
であったり
at the drive-in (バンド名)時代のオマー・ロドリゲスの、
「そりゃ僕は『次の瞬間この心臓が止まってもいい!』ってつもりでいつもギター弾いてるけどさ、まさかツアー移動中に乗ってる車が前に半回転 (前転!)するとは思わなかったよね......あ、メンバーは全員無傷だったから大丈夫だよ!」
であったり
ジョン・コルトレーン・カルテット等でドラムを叩いていたエルヴィン・ジョーンズの、
「とにかく強く!速く!!叩くんだ!!!」
であったり
映画・燃えよドラゴン序盤でのブルース・リーの、
「Don’t think, feeeel...」
であったり
福岡市東区にある箱崎水族舘喫茶室のマスターであり、バンド・オンゴロ(等)のギタリストでもある花田さんの、
「音量や音圧勝負じゃない『強い音』っていうのがあってね...」
「練習のように本番に臨み、本番のつもりで練習するんですよ」
であったり
同じくオンゴロや半元気 (バンド名)のベースヴォーカルで、大耳ネットワーク主催のかっとさんが名島表現塾の休憩時間の雑談中に話してくれた、
「(舞踏家の)土方巽が『舞踏とは突っ立ったままの死体である』って言っててね...
踊りだけじゃなく芝居の演技でもこれは一緒で、そういう役者さんの姿は立ってるだけで (良い意味で)気にならない・気を散らされないし、特別何もしてなくても場が持つ、お客さんがちゃんと観れる、真剣な鑑賞に堪えうるし、それに感動するんだよ...」
であったり
小林秀雄モーツァルトの手紙の中の、
「構想は、宛(あたか)も奔流のように、実に鮮やかに心のなかに姿を現します。然(しか)し、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに一指(いっし)も触れることは出来ません」

「彼(モオツァルト)は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であった」
であったり
宮本武蔵五輪の書の、
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」
であったり
聖書の、
「汝、己の如くに隣人を愛せよ」
であったりする。
他にも色々あったような気がする。が今はちょっと思い出せない。何はともあれ。

 

これらの言葉はうろ覚えなので正確な発言や記述ではないかもしれないが、どれも強い印象として自分の内に残っている。いずれにせよ、これらを纏めてミックスし雑に自己解釈すると
(単に 常に全力フルパワーの力いっぱいで滅茶苦茶に暴れる という意味では決してなく、例え直立不動で静かに演奏していようとも、あくまで自分の中では)
「これが最後だと思って・悔いが残らないよう・我を忘れて・一生懸命演奏する」
となり、しかもこれまでの自分の実感としては「そこまでの命懸けの腹積もりで舞台に立てたことはまだ一度たりともない」のである。

 

そういうわけで、自分の願望としては
「絶対条件ではないにせよ、そのような死も厭わず・この肉体の生死は大した問題ではないという・揺らぐことのない・ある種の内的静寂が『その音』を出すための必要条件であって星い」
となっている。

 

そう、「舞台」と前述したことに付け加えるなら...立派なステージでないにせよ...人の目があることもまた重要な要素のひとつで、キング・クリムゾンのリーダーかつギタリストであるロバート・フリップの言葉を借りるなら
「毎回ではないが、ごく稀にライブ中にマジックが起きる。観客のいるライブじゃないとダメなんだ」
に近いモノがある。
僕などは誰よりもまず自分自身のために演奏しているため「誰かを感動させるぞ!」みたいなつもりは更々ないし、いちアマチュア趣味バンドマンの域を出ないわけだが、もしその音をほぼ同時に、同じ場で一緒に聴いてくれ、その瞬間の黄金体験(ゴールド・エクスペリエンス)を共有してくれるひとが一人でもいればとても嬉しい、という微かな希望もある。

 

何にせよこれは自分の演奏上の、覚悟や心的姿勢についての話だ。
自室で単身ひっそりと演奏していて「こ...これだーーー!!」となってもいいのだが、残念ながら、何となくそうはならないような気がしている。
やはり聞いてくれるひとが目の前にいるということは、当然ながら 誰もここにいないのとは全然違うように感じる。他者の存在は、思いのほか大きい。
まさにアニメ・さらざんまいの「繋がりたいけど、繋がれない」である。
(でも、その上で、コミュニケートを試みていくのだ...)
(或いは、ものすごーーく自分のレベルが上がれば「ここにいないあなたとも、今、わたしは繋がっている」になれる かもしれない)

 

先ほど(内的)「静寂」と書いた。
ある種の瞑想状態の中途、とある段階にそれは存在しているらしい。
もっと段階が上がると、インド音楽だかインド哲学だかで言うところのムジカ・ムンダーナ荘子が言うところの天籟 (てんらい)、いわば宇宙の音が自分の内に響き聞こえるようになる、とのこと。
これらを知った時には「その音ってどんなんだろう...いつか聞いてみたい...」と思っていた。
今ではより一層に欲深くなり「いずれ自分でその音を出してやるやでぇ...ゲヘゲヘ」である。
全く、果たしてこれは進んでいるのか下がっているのか。自分で全然判らなくなる。己に呆れてしまうま。困ったものだ。

 

ともあれ「その音」を聞くためには「その音を聴きたい!」という自分のその欲自体を真っ先に捨てなければならないのである。嗚呼、矛盾。さながらまるで禅問答。相反二律、二律背反というやつである。多分。違うかもしれない。違ったらスミマセン。

 

ひ弱な現代惑星人代表たるもやしっ子の自分などは、一日に玄米四合など大量すぎて到底食べ切れないし、味噌と少しの野菜だけでは物足りない。なんならモリモリお肉が食べたい。さりとて喜び勇む肉食も、度が過ぎればすぐに胃もたれ消化不良を起こしてしまう、あとおならがものすごく臭くなる。うんちもきっと硬くなる。
そう、全てはバランスである。それはそれとして

 

「さういうおとを/わたしはききたい」
聞けたらきっと、自分はその音を気に入るだろう。好きなはずである。
これは恋か?いいやそれではまだまだ足りぬ、目指すは未知なる至上の愛へ。
チベットの某大師曰く
「それは決して言葉にできるものではない――」

 

そのためにまずは...
そうだなあ、自分にとっての色々な「ちょうどいい」を試し学び考え振り返り実践し経験を積みつつ・日に一枚ずつ紙を重ねていくように・ちびちび成長しようと足掻き諦めることなくやり続け努力し迷走しながらも瞑想しつ訓練し...
ともかくこの肉体が生きてる間中は模索していきたいところである。その頑張りには個人差があります ので 自分はこれからも自分なりに、ほどほどに頑張ろう。。
自分が何を書いているのかよく分からなくなってきた。そろそろ終わろう。

 

自由は、自ら由(よ)ると書く。
様々なしがらみや悩みから脱し、真に自然になり奏で、つまりは自然と一体となり...自身が音楽そのものになるためには、まずは自身を統制・コントロール出来るようになる必要があるのだろう。プェー

 

・・・

 

とりとめのない長文となりましたが、読んでくださりありがとうございました。
現日時では幾ばくかのフライングになりますが、ふぇれ荘4周年おめでとうございます!
おわり

(6/29 の felesitas.cloud 設立日・4 周年記念企画によせて 2021 年 6 月 27 日午前 2 時半 脱稿)

 

この文章を見て、皆様は何を考えるでしょうか。

自分は、felesitasに入りたい人から、このような感じで文章をお送り頂き、その文章にアツコさんに返答したように返答します。

そこで文章に対し深く共感、納得出来たら、受け入れても構わないな、という気持ちを持って招待ができるのですが、

たまに、felesitasに入りたいからと言って、何も事前に言わずに文章を送ってきたり、趣旨に添うものではない文章をお送り頂いたり、と言った経験があります。

 

今回の場合、個人的に当惑してしまいました。

本人にも伝えましたが、この文章のような文章をfelesitasに入りたいとしてどなたかからお送りいただいた場合、お書き直しをお願いすると思います。

ですので、もし、未来でfelesitasに入りたいと考えている方がこちらを読んでいらっしゃるとすれば、参考にしてみてください。

 

せっかく送っていただいたので、上記の文を要約してみました。

 

自分が出したい音がある。
その音は他者が出す音ではなく、自分で弦楽器を弾いて音を出したい
音楽を奏でるイメージはともすると自傷行為にも似た行為を行っていると私は思う。
音楽を弾くのは自分の命を懸けて行うものと捉えており、様々な過去の表現の先人の言葉を参考にしている。そのうえで、無心で、一生懸命演奏するというのが私のスタンスである。そして、そこまでの心づもりで舞台に立ったことまだ1度もない。
自分の出したい音は、生死を超えた内的静寂が必須条件であり、また、その音を出した結果、ライブ中の観客と一体となった瞬間を体験したいのだ。
その音は瞑想の段階の途中に存在しており、宇宙の音が自分の内に聞こえるようになるらしく、私はその音を聞いてみたいと思っているが、求めすぎてもその音は出せないのである。
この音を出すためには、まず自分にとって「丁度いい」ことを見つけ、積み重ねていくことが必要であると考えている。生きている限り自分なりに模索していきたい。
まずは自分をコントロールするところから始めていきたい。

 

要約したこの文章で465文字なので、読む人に伝わりやすく例示を入れていきつつ、文章としてまとめると500字以上行くのかなと思います。

 

この文章を読んで考えたのは、音楽は基本をずっと練習した先に即興で演奏することで感動が生まれる、ということです。

いつかその求める音を出したときにその演奏を聞いていたいなと思います。

 

本来であれば書き直しになると考えていると本人に伝えたところ、2つ目の文章をお送りいただきました。

その文章がこちらです。

 

僕はJ.S.バッハの作曲した「G線上のアリア」という曲が大好きです。
正式には管弦楽組曲の第3番だったかな…そのうちの一部分がピックアップされ、有名になった曲です。

 

中でもジャン・フランソワ・パイヤール指揮、パイヤール管弦楽団の演奏による、確か高校生になる直前に買った¥1000の「バロック名曲集」というCDに入っているG線上のアリアが、他のどの演奏や指揮者によるモノより好きです。未だにそのアリアが、自分の好きな曲トップ3に入るくらいにはずっと好きです。

 

何故そのCDの、そのG線上のアリアが好きかというと
(パイヤール指揮かつパイヤール管弦楽団演奏の、同曲の他の録音もたくさん残っているのですが)
「自分がこれまでに聴いたあらゆる演奏の中で最もスローテンポでゆったりと長時間の演奏がされており、最も柔らかく優しい音に感じるアリア」だからです。

 

このCDを買ったきっかけとなったのは、中学校の卒業式でした。
卒業証書授与の間、体育館のスピーカーから繰り返し流され続けていたある一曲に自分は猛烈に感動しました。
他の同級生たちは卒業することに対し泣いているひともあるふうでした。でも恐らく自分だけは違いました。中学校も卒業も友人や先生やとの別れも何ひとつ関係なく、ただシンプルにその曲の美しさに泣いていました。

 

後日、どうやらその曲は「パッヘルベルのカノン」という名前であるらしいことを知りました。
バロックという時代にヨーロッパのどこかで作られたものらしい、バロック名曲集と名の付く録音物には大抵入っている有名曲であるふうなので、目につくあらゆる「バロック名曲集」のCDを買い求め…或いは図書館で借り…聴きまくる日々の始まりです。

 

次第に「同じ曲のはずなのに、指揮者や楽団によって演奏が全ッ然違う」ということが判りはじめました。

 

そんな自分が最初に買ったバロック名曲集のCDに入っていたのが、最初に書いた「パイヤールのG線上のアリア」です。このCDの、この指揮とこの演奏でなければならないのです。

 

ちなみに前述の卒業式で衝撃を受けたパッヘルベルのカノンですが、この曲もやはり同じくらいに好きです。
この曲に関しても「そのCD」に入っている録音が (G線上のアリアと同じく) ゆったりゆっくりと優しい音色で演奏されており、一番好きなカノンです。

 

そんなわけでカノンから入ったバロック名曲集の世界でしたが、いつの間にか自分はこのアリアの美しさと、一抹の仄かな物悲しさに惹かれていました。

 

このアリアの演奏の、中盤あたりからの旋律や音色を聴くといつも想起されるイメージがあります。
カメラアングルは薄暗い部屋のベッドの上の、皺のよったシーツだけを映しています。そこには映っていない見えないところで、恐らくは見知らぬ2人が愛し合っているのです。

 

どういう2人かは分かりません。男女かもしれないし、同性同士かもしれない、そのどちらでもないのかもしれない。熱愛なのか静かな愛なのか、幸せラブラブなのか悲恋かどうかも解りません、でもそれらは大した問題ではありません。
とにかく「愛し合う2人」です。
それだけがこの演奏を聴く度にいつも何度でも想像され、自分は泣けてきてしょうがないのです。

 

一時期は「もし自分のお葬式があるならこのCDの、このG線上のアリアだけを流して星い」と公言していました。今でも内心そう思っています。

 

まさかのYouTubeにそのCDの、その演奏がありました。
見間違うはずもありません、このCDジャケットです。同じです。
https://youtu.be/hH4TOlj9MC0
これが僕の一番好きなG線上のアリアです。

 

この文章に対しての返答になります。

 

私もG線上のアリアは好きです。しかし、このバージョンの、という指定はなかったため、星さんの感じるものとは少し異なるのかもしれません。
確かに最後に貼っていただいたリンクのアリアを聞くと、柔らかく優しいアリアに聞こえます。変に焦った風でもなく、間延びした感じでもない、ゆったりという言葉が合っていると思います。

 

この曲に出会った理由が、中学生の卒業式で出会ったカノンに強烈に感動したからなのですね。
カノンは確かに強烈に感動してしまう強さを持った曲だと思います。
Youtubeの関連で出てきたので聞いていますが、確かにこちらも優しい音色だと感じます。

 

そのCDで聴くG線上のアリアから想起されるイメージが、物悲しいイメージと皴のついたシーツの敷かれたベッド、別のところで愛し合う二人ということで、これは星さんが固有に抱くイメージなのかもしれません。人によっては、まったく別のイメージを抱くこともあると思います。だからといって、星さんや他の方が間違っているということはないのだと思います。

 

また、先ほどの文章の中にある要素を加えると、この演奏が必ずしも正ではないのだと思います。観客がもし星さんを含めいて、この時代の、その場所で弾くアリアも、その演奏者、聴く人、弾く楽器、音の響き、リズム、等、様々なものが合わさり、必ずしも楽譜に沿ったものでない、しかし感動を呼ぶ演奏ができるのだと思います。
星さんはこの曲に「愛」を感じ取った、ということですね。泣いてしまうほど、そのイメージは強いと。


喪失感と愛は、星さんの中でこのアリアを聞いたことで想起されたイメージですが、それを分かったうえで、なぜそれが想起されたのかを考えるのも良いかもしれませんね。

 

以上で返答とさせていただきます。

ご参加いただきありがとうございました。

 

次に文章をお送りいただいた方は、きーのさんです。

keynote (@keynote@felesitas.cloud) - felesitas.cloud

お送りいただいた文章は以下になります。

 

drive.google.com

以下に文章を転記します。

 

felesitas.cloud 4 周年企画に寄せて

私の好きなもの

by きーの
私は本が好きです。その理由を端的に示しますと、本は私にとってもう一つの世界だったからです。もう一つというのは何も本が導いてくれる世界が一つという意味ではなく、――本が示してくれる世界なら複数、いや無数にありました――現実に対しての仮想的な、あるいは現実をいったん忘れる/拡張する/俯瞰的に見る/相対化する......などといった意味での「もう一つ」だったのだろうと思います。たとえば、現実で困難なことやもやもやした気持ちを幼い自分が抱えていたとしても、本によってわくわくするようなリアリティの中に意識をワープさせることができれば、早く続きが読みたいという気持ちになり、現実も楽しくなるようなことがありました。私は幼い頃から本の虫で、図鑑をはじめ文字と見るや興味を示していたというのが両親の認識でもあり、漢字も学校で習うより早く覚えることがありました。さすがに就学前についての記憶はおぼろげですが、小学校の時の読書の時間については記憶があります。教室の中にいながらにして、「他の世界」に出かけては思いもよらなかったような「景色」に出会って、夢中になるような展開が待っていて――そのころの自分は、本を読んでいると没頭しすぎていて、周囲から呼びかけられても気が付かないことが多々あったようです。
 ところで本が好きというのは、ここまでにおいては活字が好きだった/書かれた物語が好きだったという二つの意味で解釈することができるでしょう。しかし、その意味合いというのは気づかないうちに少しずつ変化していったのかもしれません。というのは、私にとっての「いま、ここ」から過去を振り返ったときに思うことです。私たちが過去を語るとき、その語りは「いま、ここ」の自分の位相から再編され、語りなおされるのです。(これって、まさに今大学で学んでいる、ど文系っぽいものの言い回しだなあ)それを踏まえますと、今の私からすれば、私にとって本を読むことにはいつからか別の重要な意味があったという風に思います。
 とはいっても、その「重要な意味」については冒頭で語ってしまったのですが、改めて言うと現実を拡張する、俯瞰的に見る、相対化するという意味、機能ですね。いや、むしろ、こう言い換えたほうが良いかもしれません――つまり、「本を読むことは、私にとって、世界をこの手に、この目に、この耳に、この感覚に――取り戻し掴み掌握し手放さないための手段であった」のかもしれない、と。
 どうしてそう言えるのかについて、やや哲学的になるかもしれませんがお付き合い願いましょう。まず、私たちは五感を通じて世界を認識しているように思いますが、果たしてそれは本当でしょうか?いやむしろ、言葉や物の考え方を通じて認識してはいないでしょうか?i例えば鳥が飛んで鳴いていたとして、それが鳥だと認識できなければそう「見えない」のだと思います。概念を獲得していることがそれを認識するために必要だということですね。このあたりは構造主義的な考え方に近いのかなと思います。そういった意味では、言葉の獲得と読書は密接につながっていると思いますし、世界の獲得に到達するといっても過言ではないでしょう。
 どうして世界の獲得が必要だったのか。詳細は割愛しますが、とにかく自由を手に入れるためにどうしても私には必要でした。自由を制約するものは常に私たちの身につきまとってくるでしょう。しかし、それらのものをいったんファイルに入れて少し離れて、本当にそれが正しいのが、本当にそれが善いことなのか、本当に自分にとって望ましいものなのか――そういったことを検討する力を養うためには、どうしても考えることが必要でした。考えるためには知ることが必要でした。本はそのための考える力、知る力、考え方を知る力、知ることを知る力、すべてをカッコに入れて(いったん留保して)検討すること、現実は(立場やものの見方を含めて)選択できること、さまざまなことを私に教えてくれました。
 あなたの世界は何色でしょうか。あなたはどんな人でしょうか。どんな人でしょうか。私たちは言葉を通じてコミュニケートし、世界を認識しさえします。しかし、私は文字で書かれた言葉に格別の思いがあります。そういった意味では、世界を媒介する手段としての文字――書き文字を通じて自分の中に流入した誰かの言葉――そういったものが好きだと言えるでしょう。あなたの中にも世界が流れている、なんてちょっとロマンチックか気障かもしれませんが、これが私の「物語」です。ii

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

i しかし実際には、狭義での言語だけが「言語」――世界を媒介するための手段ではな
い、かもしれません。音楽も絵画も立派な広義の言語かもしれませんし、そういった意味では狭義の言語が世界を認識するために必須であるとするのはやや視野狭窄的なものの見方かなと思います。(このへんについては、ただの一学部生の意見だと思って、「カッコに入れて」お考えください。)


ii そして、ふぇれ荘もテキストによってみんながつながっていると考えると物語が交差したと考えることができそうです。本当の末筆で申し訳ございませんが、皆さま方には普段から楽しく交流させていただきまして、また、様々な温かい心遣いをいただいておりますこと、この場を借りて感謝を申し上げます。

 

きーのより愛を込めて。

2021 年 6 月 27 日

 

では、返答を。

 

きーのさんは幼少期のころから本がお好きなのですね。


本一冊一冊が見せてくれる世界に導かれることによって、現実を見る視点が変わり、現実が生きやすくなる、と。
図鑑や文学など幼少期から様々な文章に興味を持っていたようですね。周囲から呼び止められても、本の世界から抜け出せないというのは、かなりの集中力をお持ちのようです。


本を読むことは、活字が好きだから読むということや、そこに描かれた物語に惹かれて読む、ということ以上に、自分の外の世界を認識しやすくする手段であった、ということですね。確かにそう指摘をされると、読書の体験というのも、ある種の「行って帰ってくる」という体験になるとも考えます。これは、最近見た映画の評論の中で出てきた言葉なのですが、映画の体験をすることによって、一回仮死状態に陥り、何かを掴んで帰ってくる、という体験の構造になっている、というお話であり、読書も近いものを感じました。


ただ、きーのさんは私の上記の捉え方とは少し異なっているようですね。
認識が言葉によって自分の頭の中に具現化され、そこで初めて「分かる」ようになる、ということを、以前きーのさんからお教えいただいていましたね。この、概念を獲得していることがそれを認識するために必要というのは、改めて再認識させられました。
もし世界の概念が全て分かっている人物がいたとしたら、その人は全ての物事を認識できるのでしょうか。私が当事者だったら頭がパンクしているのかもしれません。


確かに言葉の獲得と世界の認識、それを橋渡しする読書という構造が見えます。
きーのさんは創作のテーマに自由であることが大きく入っているように感じます。現状を知るために現状から離れなければ認識できない、矛盾しているようですが真なのだと思います。認識をするには分かることから、もう一つ考えるということを加えなければいけないのですね。その力を養う教師となり、現実と付き合っていくための壁になり、知識そのものとなって、導いてくれたということになるでしょうか。

 

本を読むことで育てられた貴方だからこそ、文字で書かれた言葉に対し、特別な印象を抱き、好きであると考えるのだと。

 

私は、文字で物語を書いているので、文字を書くときに、ある種の言葉の選別を行いながら記述をしています。自分の生理的に嫌な言葉や、流れの中で気持ち悪いと思われる言葉は排除して、個人的に自然になるように書いています。
そうやって形になった文章を見たとき、受け止める方はこういった考えで文章を読んでいるのだと、創作者の私はそう捉えました。

 

読んでいる人の知識となり、守る壁になり、翼になれるものを紡ぎだすこと、それが求められているのだとしたら、私たちはどのようなものを自分の中から表現していったら問いのでしょうかね。
これは時代の波もあるとは思いますが、お互い、自分の核となるものを出せたらいいなと祈っております。

 

ということで返答を締めさせていただきます。

ご参加頂き有難うございました。

 

これを書いている時点で最後の方になるのが、にらりさんです。

にらり (@nirari@felesitas.cloud) - felesitas.cloud

 

お送りいただいた文章は以下になります。

 

# 好きなことについて語ること(前置き)

今からちょうど3年半前に、felesitas.cloudに登録するための文章を書きました。
あれから、あの内容で本当に良かったのか、何度も考えることがありました。そしていつか補足しなければならないと感じていました。
今回、サーバーの4周年企画ということで、改めて自分が好きなものについて考える機会をいただきました。
本題の《今、わたしが好きなもの》について話す前に、まず前置きとして、当初提出した文章のことについて書きたいと思います。そのときの反省というか、心残りであった部分をここに書いておきたいと思います。
*
《好きなもの》といっても、一体何を書けばいいのか、当時とても悩んだことを覚えています。
単純に興味のあるものならたくさんありましたが、自信を持って語れるようなものはひとつもありませんでした。
悩んだ結果、当時はまだ始めたばかりであった占いについて書こうと思いました。日常的に行っていたし、普段考えていることに近いことを書けるのではないかと考えたからです。

>私は占いが好きです。
>その理由は、占いを通じて自分に向き合うと、心が落ち着くからです。…

幸いなことに、その文章から自分の考え方を読み取ってもらえて無事サーバーの一員になることができました。
書いた内容は今でも自分が考えていることとあまり変わりありません。
おそらく、自分がどういう者であるのか知ってもらうための文章としての条件はクリアしていたのかもしれません。
ただ、サーバーに参加したあとも、自分の書いたことを思い出すたびに何か心に引っかかるものを感じていました。
それはきっと、占いを《好きなもの》の代表として書いてよかったのだろうか……という気持ちがどこかにずっとあったのかもしれません。

サーバーの他のメンバーを見ていると、何か特定の分野に精通しているとか、それのために日々努力をしているとか、そういう方々ばかりです。
それに比べて、自分は占いについてそれほど熱くなれるだろうか? と考えることが多々ありました。
占いについての本を読んだり、調べ物をしたりすることは好きです。少しなら自分や他人のことを占うこともできます。
占いが自分にとって必要なものの1つであることは確かなのですが、それが自分のことを言い表しているかというと、少し違和感がありました。

そこで今回は、3年半前に書こうとしたものの、当時は向き合えずに断念した《絵を描くこと》をテーマに、もう一度自分の考えを文章にしてみようと思いました。

# やっぱり絵を描くことが好きかもしれない(本題)

10代の頃であれば、絵を描くことが好きだとためらわずに言えたと思います。
その頃の私は毎日絵を描くのが普通で、インターネットでも実生活でも、今より積極的に自分のイラストを公開していました。
ですが、ある時期を境に絵を他人に評価されるのが怖くなり、絵を描くことを公言しなくなりました。

それでも、何かの作品からインスピレーションを受けて自分でも絵で表現をしたい!という衝動に駆られたときには、そのたびに絵を描いていました。

Mastodonを始めてから、絵を描いてみようかな、公開してみようかな、という気持ちが増大していきました。
貰った反応が自信となり、描く回数を増やしていくうちに、「自分はやっぱり絵を描くことが好きかもしれない」と思えるようになりました。

絵を描くことがなぜ好きなのか、一番の理由は描いている間はあらゆるものから自由になれる気がするからです。
夜に何も考えたくないときは、「描きかけの絵に線を1本2本足そうかな」くらいの感覚でお絵描き用のアプリを開きます。たいてい数時間が経って、気づいたら寝てしまっています。

他の理由としては、自分が意図しないものが出来上がる、不確実で偶然性のあるところが楽しいからです。
自分の技術が足りなくて狙い通りに描けないせいでもあるのですが、前向きに捉えることにして、だんだんとそれが面白いと思えるようになりました。

技術不足でそもそも描けない対象というのは沢山あります。構図を変化させるのも苦手で、気付いたら似たような顔の向きやポーズばかり描いている……ということが多々あります。
そういうときは「きっとこういう構図を描いてると安心するんだな」と思うことにしています。

もちろん、もっと色々なものを描きたいという気持ちはありますし、挑戦してその都度落ち込むことは何度もあります。ですが、極力気持ちの赴くままに描くことを心がけています。

自分のために絵を描いているんだと意識できるようになってから、とても気が楽になりました。
描けなくなっていた時期は、誰もが美しいと認めるような、《正解》に近づけないといけない気がしていました。
その思い込みから脱するのに時間はかかりましたが、今は絵を描き始めた幼い頃と同じように、誰に見せるためでもなく、描いていて楽しい絵を描き続けられればそれでいいのかもしれないと思っています。

このような考えに至る前、「自分は何のために絵を描くのだろう?」という問いを自分に投げかけたことがあります。
数年前、自分の好みの萌え絵を生成してくれるAIを使ったサイトがサーバー内で話題になったときに浮かんだ問いでした。
自分が描くよりも数段出来の良い絵を誰でも作れるようになったら、自分は描くのをやめるだろうか。
そのときに、自分にとっては描くという行為自体が必要なんだなと認識しました。

自分が絵を描いても何のためにもならない、ただ時間を浪費するだけだと考えていた時期がありました。
絵を描くことは生活に必要不可欠とは言えないけれど、自分にとって大事な存在であったと再び気づくことができて良かったと感じています。
そして、そのことを思い出させてくれた人たちに感謝しています。
# 最後に

自分の好きなものを語るということは一種の自己紹介なのかなと思っています。
私は基本的に自己紹介が苦手です。
自分がいったい何者なのかを言い表す言葉がいつもみつからない。
興味のあるものも常に同じテンションで好きなわけでもないので、それを通じて交流関係を広げるのが難しい。疲れてすぐだめになってしまうのです。
そんな人間がよくこのサーバーに長く居続けられたなあと正直思ったりしています。

それでも、周りのメンバーの皆さんのエネルギーというか、それぞれがそれぞれの好きなものに対する情熱に触れることで、自分の中から「あ、自分もこれが好きだったんだな」という発見をするのがとても楽しくここまでやってきました。

語学の勉強をしてみる、情報技術に触れてみる、サーバーを建ててみる、草花を見つけて写真を撮ってみる、知らなかった音楽を聴いたり本を読んだりアニメを観てみる……。
他の人たちが発信した《好き》によって始めたことはたくさんあります。ほとんど長続きはしていませんが……。

自分にも、誰かに影響を与えるくらい好きだと言えるものが欲しいなあと思い続けてきました。
これはサーバーに参加してからというより、実際はもっと昔から、幼い頃から考えている問題です。
私はきっと何か特定のものを好きになることができないのかもしれません。
もしくは、ほんとうに好きなものがあったとしても、怖くて無意識のうちに見えないところに隠してしまうのかもしれません。

今回改めて書いた文章も、時間が経ってからほんとうの気持ちとはちょっと違うかも……となる可能性も無いとは言い切れません。
でも、この時点では確かに存在している自分の《好き》なのだと、自信を持っていこうと思います。

誤解のないように最後に付け足しておくと、サーバーへの参加希望で《好きなもの》について書く際に、私のように《好きなもの》をややこしく考えすぎる必要はないと思います。
もし、好きなことをどう書いていいのかわからないとの理由で参加をためらわれてる方がいらっしゃるのなら、「あまり肩の力を入れすぎず、普段考えていることを書いてみるのが一番かと思いますよ!」 とお伝えしたいです。

 

この文章への返答となります。

 

この文章は、今回のこの企画、また、最初の入るときの文章、その総合した全体を包括する内容となっていますね。
新しい方が入って、Discordでお話しするたびに、すでに入っている方の中で、「あの文章を書きなおしたい」という声がありました。
それが今回の企画になった要因の一つでもあります。

 

今回、この文章を提出していただいた後、にらりさんの最初に書いた文章を、本人と相談したうえで、felesitasのDiscordの当該チャンネルに掲載しました。

 

その時は、占いのことを記述していらして、私も昔から易経に頼ることが多かったので、すんなりと記述してあることが入ってきた印象があります。
タロットやおみくじなど、自分が考えているけれど、これどうかなぁ、となるものや、躊躇するとき、また、自分の場合は、自分があまりに阿智混んだり怒ったりしているときに、現状を確認する意味でも易経のサイトを開いて占っています。
確かに、結果を信じて行動するのは自分次第ですし、だからこそ自分の本当の気持ちを分かることができる、という当時の文章には、自分も同意した記憶があります。

 

サーバーの創設者として、特定の分野に精通していたり、それのために日々努力をされる方を意図的に選別し集めたというわけではありません。
その方の人間性というものが、貴方の好きなもの、ことという題材から見えてくればいいなと考えているだけです。
ただ、その意図をくみ取って入りたいとおっしゃっていただける方が、上記のような、私も目が回るような、凄いなぁと思う方々ばかりで、日々圧倒されてSNS生活を送っています。自分の個人サーバーなのにね。

 

ただ、メンバーが熱量を他の人と比べて卑下する必要はないと考えます。私はほんの些細な事に対して、偏狂な思いを持った方も、その人らしさが出ていていいと思いますし、日々の生活の中で、こういうことが良いんだ、と実感のこもった文章を書いていただいたら、それもその人の在り方として良いなぁと思います。
だから、卑下する必要なんてありません。貴方自身を誇っていいんです。

 

にらりさんは、Discordの通話で以前、メンバーのことを占っていただきましたね。あの時は嬉しかったです。ありがとうございます。
あの時占ってもらった、felesitasの将来と、現在とはまた違ったものになっているのでしょうか。

 

にらりさんは絵を描くことが好きということですね。
それを最初に知ったときは私も驚きました。鍛錬された絵でキャラクターを描かれていたので、凄いなぁと感じたのを覚えています。
あの鍛錬された絵は、小さいころから描いていたから身につけられたものだったのですね。

 

他人に自分の絵を評価されるのが怖くなった出来事があったのかと思いますが、その後積極的には絵を見せないけれど、衝動があるときに絵を描かれていたのですね。

 

Fediverseは、交流によって何かしら心が洗われるところがあります。これを読んでいる少なくない方がそれを感じて頂いているのではないでしょうか。

 

絵を描くことであらゆるものから自由になれるということですが、絵を描くことで集中して他のものから離れることで、昇華させることが出来るということなのかなと感じました。
また、偶然の産物を生んでしまうことも面白く思うということですね。これは分譲の捜索にはない要素かもしれません。
同じような構図ばかりを書いていることを、きっとこういう構図が安心するんだ、と考えるのは、発想が上手いなぁと思ってしまいました。

 

気持ちのままに書くことで、心に内包していたわだかまりが溶けていくのであれば、それは良いことだと思います。
誰に見せるでもない、自分が書いていて楽しい絵。こうやって楽しんでいる人のことを知ると、自分もやってみたく思ってきます。
自身には描くという行為自体が必要だったということですね。話題に出たので思い出しましたが、あの画像たちも懐かしいですね。
自分も文章を書いているときは、「何のためにやっているんだろう」と、虚無感の中で進めることがあります。
ただ、その行為自体が自分に必要なものなのだと考えると、同じ思いに至ることができるのかもしれません。

 

確かに、この問いは自己紹介の位置づけで設けているところはあるのかもしれません。
ただ、結構この問いは難しいとも思います。答えられる人と答えられない人がいると思います。
ただ、ずっと好きでいる人だけを集めたいというわけではなく、その人間性が知りたいと考えていたことが、もしかしたら効いているのかもしれません。

 

皆が皆の領域のことを語るとき、必ず、ここは私のこの考え方で行くとこうだ、ここはちょっと近しい考え方かもしれない、または、まったく違った考えを知って、刺激になったり。
異業種の異種格闘技みたいな形の中から、ある種のハーモニーのような結論を得ることもあります。そこがfelesitasの面白さでもあると思います。

 

この「好きなこと、もの」というのは、もう一つ狙いというか意味があります。
それは、どうしても超えられないレールや壁のようなものが人生のなかで転がっているとき、人は何かを熱狂的に好きになることで、ある種曲がった人間になるのではないかと考えており、そういった方のほうが自分は話していて楽しいという認識がありました。
真っすぐ育った樹よりも、曲がった、偏屈した樹が好きだなと考えます。努力の形が、その熱狂した好きを見ることによって、垣間見えるからです。
もちろん私も曲がっている自覚はあります。ぐるぐる巻きで変な方向に飛び出しているからこそ、こんな辺境の、こんな変な掟を持ったサーバーを管理しているんですから。

 

上記のようなことが、にらりさんには怖く感じるのでしょう。でも、それでよいと考えます。曲がっていなくても、日常のいろいろな小さなところにも、人間性は潜んでいるとも思っていますので。

 

好きなものは変わっていいんです。深く好きなものもあってもいいと思いますが、無くても構わないと思います。自分のために絵を描くこと、素敵だと思います。

 

にらりさんも仰っているように、もしこのサーバーに入りたい方がこの文章を読んでおられるなら、本当に普段自分が考えていて、なんとなくこれが好きなんだろうなぁ、と考えることを、そのままの考えで書き起こしてみることをお勧めします。

 

以上で、返答を締めさせていただきます。

参加頂き、ありがとうございました。

 

今回の企画での総評を書きたいとは思うのですが、なかなか体力が続かず、現在夜中になってしまったので、別記事でゆっくり挙げたいと思います。

 

何より、参加してくださった皆様、ありがとうございました。

 

また、4年間、サーバー内外で私を、技術的にも精神的にも支えてくれたFediverseの皆さんに何よりの感謝を申し上げます。

これからも、御贔屓の程を、宜しくお願い致します。

 

 

2021年6月29日

雨宮凪沙/nagiko